1994年に開催されたK-1GP(WGP)の第2回大会は、ピーター・アーツの優勝の裏に極真カラテのスター選手だったアンディ・フグの初戦敗退というショッキングな試合も隠されていた。
アンディは、代名詞のカカト落としを武器に日本に在住し“青い目のサムライ”としてテレビのバラエティー番組や企業コマーシャルに登場するなど、日本国内でも知名度が抜群にあった。
そんな中でのスター選手の敗北は、世界戦略を視野に入れるK-1にとって大きな痛手と言えた。
しかもアンディが負けた相手は、UFCの第1・2回大会に連続参戦していた米国の喧嘩屋パトリック・スミス(故人)。極真カラテで実績を残したアンディがUFCの喧嘩屋にパンチでKO負けを喫し、なかなか厳しい状況に立たされていた。
だが石井館長は、その年の9月に『K-1 REVENGE』という大会を開き、すぐにアンディとスミスのリマッチを組んだ。
ちなみに“リベンジ”は“復讐”のことだが、じつは日本でこの言葉が定着したのはK-1がキッカケと言われており、のちにK-1ファンだった当時プロ野球選手だった松坂大輔投手がインタビューで“リベンジ”と発言して、さらに注目されたエピソードがある。そのくらいの影響力が、この大会にあったようだ。
そしてアンディは、負ければ終わりの“リベンジマッチ”でスミスに挑むこととなった。アンディは周囲の心配を嘲笑うかのように鮮やかなヒザ蹴りをスミスにヒットさせ、1RKO勝ち。K-1GP初戦負けの怒りを爆発させることに成功した。
さすがは、“鉄人”アンディ・フグ。翌年のK-1GP第3回大会へ向けて、見事な伏線回収につながる勝利になった。
ところが……、翌1995年3月に開催されたK-1GPで、再びとんでもないことが起こってしまう。この時からK-1GPは、開幕戦と決勝トーナメントの2大会に分かれて行うこととなり、初戦でアンディはボクシング上がりのマイク・ベルナルド(故人)と対戦した。
ジェロム・レ・バンナと同期のベルナルドは当時無名の新鋭で、アンディのかませ犬的な見られ方をしていた。だが、実際にはむしろ逆で、強烈なパンチでアンディから何度もダウンを奪い、衝撃のTKO勝ちを収めたのだ。
いま振り返れば、ボクシングスキルの高いベルナルドのポテンシャルは高かったため、顔面ルールの経験が少ないアンディが負けても仕方がないところでもあった。しかしながら当時は、またアンディが初戦で負けたというイメージがついてしまうことに。
しかも、その年の9月に組まれたベルナルドとのリベンジマッチでアンディは、再びKO負けを喫する痛恨の一撃を食らってしまった。アンディへの期待値が高い分、下落した時の反動は大きい。
“もうK-1を辞めた方がいいのではないか”“顔面ルールは向いていない”というキックボクシング専門家の意見が次々と浮上しては、アンディのプライドにダメージを与えていった。
第3回K-1GPは、ピーター・アーツが圧倒的な強さを見せて連覇に成功。その裏で、アンディの限界説が広まっていくこととなる。この時のアンディに漂う悲壮感は、かなりのものがあった(以下、次回)。