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【コラム】【K-1と立ち技格闘技の歴史⑤】K-1に“NO”を突きつけたキックボクサーたちの反乱(執筆者:松井 孝夫)

1993年にK-1という“ジャンル”が誕生して、過剰に反応したのが、いわゆる日本のキックボクサーたちだ。今の時代だと“?”という感じかもしれないが、当時のK-1に対する日本のキックボクサーの受け止め方は様々だった。

とくに嫌悪感を露骨に表に出したのは、90年代の日本のキックボクシング界を牽引した立嶋篤史だった。彼は『格闘技通信』の取材に対して「K-1は偽キック」と批判した。

つまりK-1はキックボクシングのようであり、キックボクシングではないということだ。

たしかにK-1は“キックボクシング団体”を名乗っていないため、一線を画するのは間違いない。だが問題は、キックボクシングに準じたルールを使用していることと、外国人のキックボクサーをリングに上げて空手家などと戦わせることにあった。

何も事情を知らない一般人からすれば、既存のキックボクシング団体の試合とK-1の試合は、ほとんど見分けがつかないことだろう。競技かイベントか、という論争がその頃にもあったわけだ。

90年代のキックボクシングは、東京・後楽園ホールが満員になるほど人気が出てきており、それは立嶋らスター選手の登場が大きかった。キックボクシングはその昔、地上波放送を3局で行うなどの国民的な人気コンテンツだったが、利益を奪い合う形となり分裂を繰り返して自滅した歴史があった。

新しい世代の力で、そこからキックボクシングが復活しつつある中でのK-1誕生により、K-1に乗るのか乗らないのかという論争が出始める。とくに軽量級まで力を入れ始めた96、97年にかけてはキックボクサーにとってK-1が“踏み絵”のような形になっていた。

今だと所属のキックボクシング団体を抜けてONEやGLORYと独占契約するのかという感じだろうか。いや、RIZINで試合をするイメージの方が近いのかもしれない。そこにはキックボクサーという誇りを捨ててまで、知名度やファイトマネーを最優先するという議論が横たわっていた。

K-1は、ヒジ打ちなし、ヒザ蹴り制限(当時は3秒有効)、3ラウンド制をおもに採用していたため、このルールも“キックボクシングではない”という反K-1派キックボクサーの主張すべき点であった。今でこそ世界のスタンダードとなっているヒジ打ちなし、ヒザ蹴り制限、3ラウンド制だが、90年代のキックボクシングはヒジ打ちあり、ヒザ蹴り無制限、5ラウンド制(新人が3ラウンド)が主流だったのだ。

キック界のカリスマのK-1に対する“NO”は、キックボクシングという競技、価値観を歪めることになるという警告でもあった。ただし、これに呼応するキックボクサーは少数で、“K-1からオファーがあっても出ない”ということしか対抗策はなかったのも事実だ。

ファイトマネーにも大きな差があったため結局は長いモノに巻かれ、97年にはK-1フェザー級GPが開催されることに。各キックボクシング団体の代表がK-1主催の会見に登壇するなど、キック界統一の機運が高まっていた。

だが大きな問題は、あくまでも大会の主役はヘビー級を中心にした選手たちで、軽量級はいわゆる前座扱いになること。会場の規模が大きいこともあり、軽量級では集客できないことがネックになっていた。

魔裟斗をエースにした中量級のK-1MAXが生まれるのは、このずっと後になるが、K-1誕生でキックボクシングのアイデンティティは大きく揺れていた。(以下、次回)

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