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【コラム】【K-1と立ち技格闘技の歴史④】戦争と病気に苦しんだレジェンド 初代王者シカティックの壮絶人生(執筆者:松井 孝夫)

1993年に開催されたK-1グランプリ(=GP、のちのWGP)で優勝したのは、クロアチアのブランコ・シカティック(写真は1998年6月、イワナ夫人とサグレブ郊外で)だった。

当時の主催者発表(大会パンフレット掲載)では、33歳か34歳だったと思うが、実際には38歳で、おそらく高齢の選手を連れてきたとなってはイメージが悪くなると懸念したのか、若く見積もって発表したのでは?という説もあった。

だがシカティックは、ロートルどころか全盛期とも思わせる強さで、一回戦でチャンプア、準決勝で佐竹雅昭、決勝でアーネスト・ホーストを倒し、オールKO勝ちでGPを制した。

K-1GP初代王者となったシカティックは、テコンドー、空手を学んでから、18歳でキックボクシングを始めた。ピーター・アーツが所属していたオランダの名門ドージョー・チャクリキに所属し、兄貴分的な存在として後輩を牽引していた立場でもあった。

彼の武器は、屈強な肉体から放たれる“伝説の拳”と呼ばれる右のパンチだ。決して器用なタイプではないが、その一撃は壁に穴を空けるのではないかと思わせるほどの破壊力があった。

伝説の男は、翌年の12月に開催されたK-1 LEGEND乱という大会で、因縁のホーストと自身の引退試合を行っている。試合は伝説の拳によるKO勝ちで、ホーストを返り討ちにした。

引退理由は「体力の衰え」ということだったが、実はそれは建前で、本当はクロアチアの独立戦争に参加するためだった。クロアチアは1991年から1995年にかけてユーゴスラビアからの独立戦争が勃発。この独立戦争は、クロアチア人とセルビア人の民族闘争が根底にあった。

シカティックは、クロアチアの特殊コマンド部隊の教官に就任し、国のためにグローブではなく、銃を持つこととなったのだ。

筆者は1998年、スポーツ雑誌『Number』の取材でクロアチアを訪問し、シカティックと当時のクロアチア代表の人気サッカー選手だったズボニミール・ボバンとの対談を担当した。

話題は、クロアチア独立戦争についてだ。ボバンはクロアチアのサッカーチームのディナモ・ザグレブに所属し、90年のセルビアチームのレッドスター・ベオグラードと試合をした。ところが試合中にサポーター同士が衝突し混沌としている中、ボバンはユーゴスラビアの警察官に暴行を働いて出場停止処分を受けることに。だが、これが引き金となり、独立戦争が加速したと言われた。

対談した際は、すでに戦争は終わっていたため、あらためて2人に当時の様子を振り返ってもらうことになっていたのだ。

1998年は、日本のサッカーが初めてワールドカップ出場を決めた歴史的な時で、予選リーグの対戦国がクロアチアだった。ボバンはイタリアのACミランの主力選手でクロアチア代表を務めていた。

シカティックとボバンは旧知の仲で、シカティックは「ズボニミールとは “最初に鐘を鳴らす男”という意味がある」と名前の由来の説明をしてくれた。まさにクロアチアがユーゴスラビアから独立するための“鐘を鳴らした男”とシカティックは、ボバンを紹介して笑った。

またボバンは、シカティックが特殊コマンド部隊の教官として国のために戦ってくれたことをしきりに感謝していた。

後日聞いた話では、シカティックはスポーツ選手で構成された部隊を率いて戦場に出た際、後方支援を任されていたようだが、敵に手榴弾を投げられて多くが死傷したという。そして、生き延びるために敵に向かって機関銃を乱射したことを明かしてくれた。

K-1という華やかな舞台で活躍した王者が、生死をかけた戦地で味わった本当の恐怖。日本にいると、どれだけ怖かったのか想像すら難しい。

2017年4月、クロアチアの若きMMAファイターを率いてパンクラスに来日した時のシカティック

シカティックは晩年、肺塞栓症と敗血症のため入院していたが、パーキンソン病も患い、2020年3月23日、自宅で死去した。65歳だった(以下、続く)。

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