今、ここで、このような原稿を書いて、暮らしていける人生を送っているのは、1993年11月12日にUltimate Fighting Championshipが開かれたからに他ならない。当時は愛知県に本社がある某メーカーの営業本部で働く勤め人だった。週に3度のフィットネスジム通い、他の3日間は仕事が終わるとサンボの練習をする。特に不満はなかった。そこそこの給料をもらい、人生を共にする女性とも既に付き合っていた。
職種に関わらず、社会人──勤め人となれば、定年をどこかに見つめ、つつがなく生きていく。そんなモノだと思っていた。それができれば、自分の人生は真っ当に終えるころができる。ただ一つの心残りは、世界を見て回ることだった。
小学3年生の時に「世界の鉄道」という一カ月の小遣い以上の値がする本を買い、四六時中眺めていた。
「そんなに好きなら、外国に行って、実際に電車を見てごらん。おばあちゃんの時代は、せいぜい本や写真で外国のことを知るだけだったけど、あんたは違う。これから見たいモノは、自分の目で見ることができる時代なんやから」。
既に80歳に近かった祖母の言葉が、その後の人生の指針となった。「フランスへ行って、ミストラルに乗りたい。イタリアでは元祖パノラマカーのセッテベッロの先頭に座りたい。ヨーロッパ最後のイスラム王朝、アルハンブラ宮殿を訪れたい。ポルトガル・ラリーが見たい。ロニー・ピーターソンが命を落とした、モンツァ・サーキットで花を手向けたい」。とにかくMSGだ。いや、キール・オーデトリアムだ。インディアナポリス・スピードウェイ。ピカデリー・サーカス、タイムズスクウェア、ロサンゼルス・フォーラム、パリ・ベルシー──。年を重ねるごとに、その趣向は変化し訪れたい場所は増えるばかりだった。
大学に通う4年の間に米国に2度、香港&マカオ、ニューカレドニア、韓国、卒業旅行で欧州を1カ月弱、加えて社員旅行で台湾に赴くことできた。ミストラルには乗らなかったが、TGVやICEには乗った。MSGとモンツァ・サーキット、インディアナポリス・スピードウェイに行くこともできた。マカオでF3、ロードアメリカでインディカーのレースも観戦できた。
でも、全く足らない。普通に家庭を持ち、定年まで働くには足早でも、世界を見て回りたい。「3カ月、休暇をください。世界を周れば、定年まで何も文句を言わず働き続けます」という申し出の返答は、本社から地方の営業所への降格人事的な配属移動だった。
その結果──第1回UFCの翌月に会社を辞めて、1994年2月から11月まで世界32カ国を周った。世界中で車のレースを見て、名物料理を食らい、日の出と夕焼けを眺める。そして、ジム巡りをする──。鉄道、レース、食べ物、そして格闘技が好きだから、世界に出た。ただし、務めていた会社を辞めるだけの強い想いを抱いたのはホイス・グレイシーの戦いを──第1回Ultimate Fighting Championshipのビデオを見たからだ。あの時感じた凄まじい衝撃は、今でも忘れることはない。なんら、色あせることがない。
タイでムエタイの試合、カナリーでカナリー相撲、フランスでフルコンキックを観戦し、ペンチャク・シラットのジムを訪れた。オランダでドージョー・チャクリキ、ボス・ジム、パドゥール・スポール、ドールマン道場、コップス・ジム、LAでグレイシー・アカデミー、マチャド柔術アカデミー、イノサント・アカデミー、サクラメントでライオンズ・デン、サンパウロでグレイシーバッハ・サンパウロ、ベーリンギ柔術、アルメイダ柔術、リオでジョアォン・アルベルト・バヘットのアカデミーを訪れた。
ちなみにLAではヒクソンのアカデミーも訪問したが、ヒクソンは不在。安生洋二の道場破りの直後だったらしく、彼の教え子たちに異様に険しい目で追い払われた(笑)。タンパではマレンコ道場を訪れ、カール・ゴッチの家で幸運にも、コシティを振るゴッチさんに出会えた。
そして──ノースカロライナ州シャーロットで、UFC03──ホイス・グレイシーとキモの戦いを観た。この10カ月の放浪中に格闘技通信の記者をしていた若林太郎さんに、オランダで出会い──東京に出て格闘技の記者になることを勧められた。
とはいえUFCに関しては、こんな危険なことはやってはいけないというのが、サンボというスポーツを少し齧った人間としての本音だった。
そう、やってはいけない。世に背を向ける行為、この背徳的な行いほど──その世界を覗き見たいモノはない。安定を夢見た人生のかじ取りが変わったのは、間違いなくUFCで初めて知った倒れた相手への打撃攻撃だった。
ホイス・グレイシー(グレイシー柔術)、パトリック・スミス(テコンドー)、ケビン・ローズイヤー(キックボクシング)、ジェラルド・ゴルドー(サバット/オーヤマ空手、キックボクシング)、ジーン・フレイジャー(空手)、アート・ジマーソン(ボクシング)、テイラ・トゥリ(相撲)、ケン・シャムロック(シュートファイティング/プロレス)らが、コロラド州デンバーのマクニコル・スポーツ・アリーナで繰り広げた戦いは、まだMMAという名称はなくポルトガル語でバーリトゥード、英語では「やってはいけないことはない」という意味になるノーホールズバード=NHBと呼ばれていた。
つまりは何でも有り──この表現がダイレクトに伝わってくる攻撃手段が、先に挙げたように倒れている相手を殴る行為、つまりパウンドだった。体重無差別、1R5分で決着がつくまで無制限ラウンド、ブレイク&判定決着なし、反則は目潰し、噛みつきと金的攻撃だけ。今や世界中に広まったMMA、その全ての始まりこそ、第1回UFCだったのだ。
とはいえMMAに通じる道が固まったのがUFCの旗揚げであり、何でも有りに通じる──ルールのある戦いは紀元前3000年ごろは存在していた。バビロニアの遺跡には2人の男が組みあう様子が残されており、すでにレスリングに通じる徒手格闘技が行われていたと推測される。
バーリトゥード、NHBからMMAと名称が代わり、技術的に進歩すればするほど、人間の歩みとともに研磨された──徒手で人を制する、絞める、極める……つまりは殺める業が集約された戦い、いや戦いの術の片鱗を残すMMAの魅力に取りつかれ、今──この原稿を書いている。
コンバット・スポーツの最大公約数であるMMA。2000年11月17日のUFC28回大会でユニファイドMMAルールが採用されることで、ルールやレギュレーションが整備され、怖いもの見たさの残酷ショーという側面が排除され、今の繁栄の第一歩を示すこととなった。
全てはUFCが起こった、からだ。ここではMMAとして、世に認知されるまでの何でも有りの歴史を、UFCが起こる以前から──個人的に欠かせないと思っている事象を書き記していきたい。といっても決して史実などと大言を吐くつもりはない。あくまでも、好き勝手な判断と考察からなる私実でしかない。それを大前提として、バビロニアの遺跡にみられる徒手格闘術が、歴史に再び顔を覗かせたのは紀元前2400年頃になる。
古代エジプト第五王朝時代の壁画により、ベルトが巻かれたレスリングが盛んに行われており、さらに時代が80ディケイド進むと、古代ギリシャでパンクラチオンが誕生した──(この項、続く)