【コラム】【K-1と立ち技格闘技の歴史①】K-1はUFCやサッカーのJリーグと同じ1993年に誕生し衝撃を与えた(執筆者:松井 孝夫)
これから連載コラムで書くことは、旧K-1の歴史を少しずつ紐解くこととなる。筆者は旧K-1が誕生する直前、ベースボールマガジン社の格闘技通信に編集部員として配属され、その後、フリーランスライターとなりK-1オフィシャルライターを任されたこともあった。K-1誕生から凋落まで、その一部始終を目撃してきた一人だ。
K-1が誕生したのは1993年だが、UFCも同じくアメリカで第1回大会を開き、日本ではサッカーのプロリーグ「Jリーグ」もスタートし、今振り返ってみても、様々なターニングポイントを迎えた年だったと思う。
1993年当時の格闘技の現状はどうだったのか言うと、まさにブームがやってくる直前の機運が高まっている印象だった。
というのも、80年代はプロレスの黄金期で、アントニオ猪木、ジャイアント馬場がそれぞれの団体で人気を奪い合った。そして猪木の新日本プロレスから派生したUWFが、格闘技プロレスを打ち出して革命を起こし、本格路線へと流れていく。さらにUWFから分派した、格闘技プロレスの色を濃くする団体が次々と生まれていった。
エンターテインメントから格闘技路線にプロレス団体が寄ってきたタイミングで、動いたのがK-1創始者でもある正道会館の石井和義館長だ。正道会館が、格闘技プロレスとうまくクロスしていくこととなる。正道会館はフルコンタクト空手の他流派の大会で優勝して知名度を上げ、“他流派荒らし”“常勝軍団”と恐れられていた。
石井館長は強さにプラスして、空手家をリングで戦わせたり、入場曲を流してスポットライトを当てるなど派手に登場させてスター選手を作っていくことに成功した。それは、これまでの空手の既成概念を覆すような出来事でもあった。
当時のフルコンタクト空手界は、極真会館が頂点に君臨し、大山倍達総裁が存命の時。エンターテインメントに寄った正道会館に対して大山総裁は「ショー空手」と批判したこともあったという。
今の時代からすれば、“なぜ、空手家がリングで戦ったり、入場曲を使うことが悪いのか?”と疑問に思う人も多いかもしれないが、空手は相撲と同じように日本の国技。一本勝ちや勝利した時は、ガッツポーズをすることはご法度と言われている(※現在も同様)。仮に対戦相手を倒した時は、十字を切って一礼するのがならわしだ。
個人的には後者の方にリスペクトの気持ちを抱いてしまうが、目立ちたいと思う願望は、どんな選手にもあるはずで、この頃から空手家にプロ意識が高まっていったのは間違いない。
空手家がプロ格闘家になり、格闘技一本で生計を立てたいという流れが、瞬く間に広まっていった。
そして、正道会館はUWF系の流れを汲む前田日明のリングスと交わるようになる。正道会館のエース佐竹雅昭、角田信朗らがリングスに定期参戦していく。やがて正道会館、佐竹らの知名度が上がっていくと石井館長は、K-1の前身ともいっていい「格闘技オリンピック」といったビッグイベントを開催し、次々と成功させていった。
プロレスブーム→格闘技プロレスの誕生→空手家のプロ化=独自のイベント開催と、K-1の前準備はすべて整っていた。これが1992年の頃。知名度を上げ、イベントを成功した実績を残し、あとは大手スポンサーを見つけてテレビ局をつけるだけ。時流に乗っているように見せて、じつは道筋を作っていた石井館長の手腕は、実に鮮やかだった(以下、次回)。