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【コラム】【ファイター今昔物語①】2009年の堀口恭司(執筆者:亀池 聖二朗)

「アマチュア修斗を見なければPRIDEは分からないし、PRIDEを見なければアマチュア修斗は分からない」

筆者は2001年にゴング格闘技編集部でアルバイトを始めた。2001年といえばK-1とPRIDEを中心として日本に格闘技ブームが起こり、翌年には旧国立競技場でDynamite!!が開催されるなど、格闘技人気がピークを迎えていた時期だった。そんななかで先輩記者から言われたこの言葉が、今も自分にとって記者人生の核となっている。

当時のゴン格編集部における雑誌の編集方針は「格闘技を通じて人間を伝える」というものだった。リングの上で戦う選手の人生を、格闘技を通じて伝える。そのためには現在の華やかな姿を報じるだけでなく、イベントの大小や選手の有名無名を問わず取材すること。これこそが専門媒体の役割であった。

自分の場合は同年代だったこともあり、山本KID徳郁や五味隆典といった格闘技ブームの立役者を後楽園ホール時代から取材することが多かった。彼らが大会場で戦い、その姿がTVで映し出されるようになって以降の取材でも、若手から成り上がっていく歴史を踏まえていると原稿の質が変わってくることを実感させてもらえた。

こうした取材経験をもとに、本コラムではトップファイターたちの「あの日」を伝えていきたい。第1回は「史上最強のMade IN JAPAN」と呼ばれ、日本を代表するMMAファイターとなった堀口恭司のアマチュア時代を振り返る。

2009年12月20日、神奈川県の相模原総合体育館柔道場で、第6回東日本アマチュア修斗オープントーナメントが開催された。アマチュア修斗では1年間をかけてプロ選手への昇格を賭けた戦いが繰り広げられる。特に毎年秋に開催される全日本選手権には、各地区予選を勝ち抜いた者か、過去の実績からエントリーを認められた強豪たちが揃う。その全日本選手権の各階級上位入賞者がプロ昇格を認められる。

全日本で3位に入賞できなくても、過去のワンマッチや地区予選の実績からプロ昇格が許されるケースもある。しかし、その場合はよほどの実力が求められることになる。今でこそ他プロモーションの実績や、トライアウトマッチの内容からプロ昇格する選手も多いものの、2009年当時はまだ修斗でプロになるための道は、ほぼアマ修斗のみに限られていた。

一方、全日本選手権が終わると、次の戦いの舞台は年末のオープントーナメントに移る。東日本と西日本に分けて行われるトーナメント戦には、惜しくも全日本でプロ昇格が叶わなかった強豪選手が多数出場していた。そんなオープントーナメントのフェザー級(現バンタム級)を制したのは、アマ修斗初出場の堀口恭司だ。

堀口に関しては、選手はもちろん関係者からもノーマークだった。しかし、いざ試合が始まると会場にいた者は誰もが、その実力に驚愕することとなる。前述のとおりプロ昇格目前の強豪選手が集まるトーナメントで、堀口は他を寄せ付けずに1日5試合を勝ち抜き優勝したのだ。

1回戦は内藤頌貴を打撃とテイクダウンディフェンスで完封し、2回戦では現在RIZINにも出場しているフルスイングこと魚井守から開始早々、右ストレートでダウンを奪う。ダウンした際に魚井が右足を痛め、わずか25秒で3回戦に進出する。以降もアマチュア選手とは思えない体の強さと、前後左右と縦横無尽に動き回るステップワークから繰り出される蹴りと正確な右クロス――。時おり自身もテイクダウンを見せながら、何より一度もピンチに陥ることなく、自分の戦いを5試合貫いて優勝した。まさに「他を寄せ付けない」試合ぶりだった。

アマ修斗初出場であっただけに、主催者である日本修斗協会にも情報はない。KRAZY BEE所属ということで大会後、山本KID徳郁さんに声をかけた。

「あの堀口という選手、すごいですね」

そう聞いた記者に、KIDさんは次のように答えた。

「俺のスパーリングパートナーなんですよ。絶対に上へ行くから、見ておいてください」

あまりの強さに修斗コミッション(当時)もプロ昇格を認めざるを得ない。主催者側にKIDさんの言葉を伝えると、「それは強いに決まっている」と言うほどだった。

2010年のプロデビュー以降の取材で、堀口のプロフィールは次第に明らかになっていく。伝統派空手出身でプロのファイターになりたいと考えていた堀口は、当初K-1に出ることを考えていたという。しかしMMAでKIDさんのファイトスタイルを見て、『このスタイルが自分に合っているんじゃないか』と思ったという。そのKIDさんが代表を務めるKRAZY BEEに入門し、体格が近かったKIDさんのスパーリングパートナーになっていた。

さらにKIDさんがUFCに出場した時、プロデビューしたばかりの堀口がセコンドに着き、インターバル中に檄を飛ばしていた。「堀口のキャリアでKIDに何を言っているのか……」という声も聞かれたが、試合後の取材でKIDさんは「強いヤツの意見だから、もっと言ってきてほしい」と述べている。あの時すでにKIDさんは堀口の強さを確信していたのだ。

時の写真と映像を視ると、ファイトスタイルのベースと丸坊主姿の雰囲気は、東日本オープントーナメントから約15年経った今も変わっていない。彼はKIDさんの言葉どおりMMAで上へと登り続け、今もない世界のトップ選手たちと戦い続けている。

ちなみに2009年の東日本オープントーナメントには、今も最前線で戦い続けているファイターが数多く出場しているので、ご紹介しよう。

田中路教は堀口と同じフェザー級にエントリーするも、準決勝で敗退。その後の活躍を考えると、もしこの時に両者が決勝で対戦していたら——と今でも考えてしまう。田中もまた、15年足っても雰囲気が変わっていない。

前ライト級KOPのアキラは、この時ウェルター級(現ライト級)を制してプロ昇格を勝ち取った。当時は五味隆典の久我山ラスカルジム所属。左目が大きく腫れあがっているものの、今でも一目でアキラだと分かる。

最後にライト級(現フェザー級)を制したのは、なんとパラエストラ福島時代の斎藤裕である。こちらは変わりすぎだ(笑)。当時22歳——現在は想像もできないほどパンクな風貌だが、今も変わらない芯の強さがうかがえる見た目とファイトスタイルだった。

2001年当時は写真もフィルムからデータに移行し、雑誌制作もデジタル化が進んでいた。堀口がアマチュア修斗に出場した2009年には、パソコンの進化のみならずiPhone=スマートフォンも登場している。

いまや報じる手段も紙媒体からインターネット媒体へと変化した。しかし筆者にとっては舞台が何であろうと「格闘技を通じて人間を伝える」という取材方針は今も変わっていない。我々が目撃してきたトップ選手たちは、舞台が変わっても気持ちはデビュー当時と変わっていないのと同じように。本コラムでは、そんなファイターという人間の歴史ーー昔から今に繋がる物語を伝えていきたい。

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